タイプ2トラベラー 世界一周 岡野豊&佐合哲也

タイプ2トラベラー 世界一周 岡野豊&佐合哲也
61年前のフォルクスワーゲン タイプ2での世界一周自動車旅行を、愛好家のタイプ2とともに振り返る

文・金子浩久
撮影・田丸瑞穂

世界自動車旅行に最適のクルマとは?

 いくつもの国境を越えて、大陸を縦横断するような自動車旅行の計画を練り始めると、クルマの選択が最初の課題となってくる。ルートや日数、メンバー数などによって、SUVやステーションワゴン、ミニバンなど、いろいろと候補に挙がってくるだろう。

 最初はパワートレインや駆動方式、馬力や燃費などのハードウェアや機能を比較し始めるが、すぐにもっと重要なことに気付く。メーカー選びとサービス工場のネットワークだ。いくら性能に優れたクルマだったとしても、旅が超長距離に渡れば、どこかで修理や手入れの必要が生じてくる。予期しない事故やトラブルにだって巻き込まれてしまうかもしれない。それが旅というものだからだ。

 鉄道や飛行機などと較べてクルマの旅は自由である分、移動手段のコンディションを自ら整えなければならない。自分たちでできる手当は限られているし、パーツをすべて積み込んでいくのも非現実的だ。だから、ルート上にある国々でポピュラーな存在となっているメーカーが造るクルマを選ぶという原則を守れば、クルマに何かが起こっても、近くのサービス工場に駆け込めば良い。それに気付けば課題は解消したも同然だ。どのメーカーの何というモデルを選ぶかは、また次の段階の課題となるが、原則は変わらない。筆者も経験したので断言できる。

 岡野 豊さんが1962年に世界一周中のベルギー人マイケル・デルピエールの旅に合流した時に、マイケルはフォルクスワーゲンのタイプ2に乗っていた。ワンボックス型のバンで、さまざまなモディファイが施されていた。マイケルはそのタイプ2に乗って、船で1960年6月14日にベルギーから東に向かって出発し、インドからオーストラリアへ船で渡って横断し、ニュージーランドから船で日本にやって来た。

 岡野さんの著書『大冒険野郎 世界100カ国30万キロ』(講談社)の冒頭には次のように書かれている。

<フォルクスワーゲンは世界自動車旅行には最適のクルマである。全世界に代理店があり販売網があるからだ。クルマはどんなに優秀なものでも必ず故障するものだ。従って部品交換がどんな辺境でも可能なクルマでなければ、世界旅行は無理である>

 マイケルは出発の2年前から旅の準備を進めていて、協力を要請できそうな企業や各国政府、要人、自動車クラブなどに3000通以上の手紙を送り続けていた。

その筆頭がフォルクスワーゲンだった。

<フォルクスワーゲン西ドイツ(当時)本社の海外輸出課に、マイケルにマイクロバスを1台提供させた>

 他にも、カメラのライカやローライフレックス、フィルムのアグファ、タイプライターのオリベッティやチャンピオン・スパークプラグなどが続き、必ず送っていたのが各国の石油会社だった。道中でのガソリンを提供してもらうためだ。それも1社や2社に限らない。シェルやエッソなど世界企業だけでなく、各国の石油会社にも送った。

 その中に日石(日本石油)が含まれていた。協力要請の手紙を受け取った日石の中でマイケルを接遇する担当者となったのが岡野さんの父親だった。マイケルは東京のオフィスを訪ねたのちに横浜の自宅に招待されて、岡野さんが紹介された。そこからが二人の旅の始まりだった。

『ロンドンー東京5万キロ』の決定的な影響

 その時、岡野さんは東京の私立大学に通う学生で、クラブ活動では体育会自動車部に所属していた。まずは、タイプ2での2か月間の日本一周旅行に同行した。離日してアメリカに渡っていたマイケルを追い掛けるかたちで横浜港から船に乗り、ロスアンゼルスで旅に合流したのが1962年6月22日。

 岡野さんは1939年に広島で生まれ、父親の転勤で6歳で台湾へ。その後、千葉に移り、小樽へ。高校1年生で小樽から横浜へ引っ越した。ロスアンゼルスへは初めての海外旅行で、自動車部に所属していても運転免許は持っていなかった。

 岡野さんの著書には、旅立ちの背景やキッカケなどは書かれていない。でも、きっと逡巡や葛藤などもあったはずだ。旅の経験を咀嚼して文章にするのには一定以上の時間を要するから、もしかしたら帰国後すぐの執筆時には体験があまりにも大き過ぎたから把握し切れていなかったのかもしれない。初めて岡野さんに会った時に、そのことを訊ねてみた。

 そもそも、海外をクルマで旅してみたくなるような影響を、誰かの話や読んだ本などから受けたことがあったのだろうか?
「うん、それは『ロンドンー東京5万キロ 国産車ドライブ記』には、大いに影響されたね」

 やっぱり!

 ある程度以上の年齢の日本人にとって、『ロンドンー東京5万キロ』は決定的な影響を与えている。朝日新聞のロンドン駐在記者だった辻豊氏と同紙カメラマン土崎一氏が、日本から船で取り寄せたトヨペット・クラウンで1956年4月30日にロンドンを出発し、各地を訪れながら5万kmを走って、最後は同年12月26日にタイのバンコクから船で山口県の富田港に戻ってくるという自動車紀行だ。

 朝日新聞紙上で連載されて大きな反響を巻き起こし、それをまとめた単行本はベストセラーになった。東京への“凱旋”を報じるモノクロのニュース映画を見ると、有楽町にあった朝日新聞本社の前は黒山の人だかりだ。『ロンドンー東京5万キロ』が、いかに当時の人々を熱狂させていたかが記録されている。

 第2次世界大戦が終わって11年しか経っておらず、日本はまだ国全体が復興途上にあった。海外旅行は制限されていて、大多数の国民には夢のまた夢だった。そんな時代なのにもかかわらず、船や飛行機で点から点を移動した紀行ではなく、初の国産乗用車で世界を“線”で体験してこようというのだ。記者でなくても、当時の日本人ならば全員がワクワクさせられていた。

 国産乗用車は、世界のクルマに太刀打ちできるのか?

 旅の途中の国々は、戦禍から立ち直っているのか?

 辻記者と土崎カメラマンは、自分たちで体験し、自分たちの眼で確かめながら帰国しようとしていた。同書には、次のように記されている。

<ロンドンの任期が終わって、東京に帰るとき、ヨーロッパ、中東、アジアの国々をモーターバイクか自動車で走り回って帰ろう。それも都会よりは、日ごろ人の行かないいなか、表通りよりは裏町をめぐり、そこに住む下積みの庶民大衆にぶつかって、かれらの生活と夢とをさぐろう。さらに、同じ使うのなら、外国製のクルマではなく、日本の国産品を使ってみよう。この最後の気持ちは、アプレ・ゲールのささやかな愛国心>

 ひとりの読者としてだけではなく、偶然にも岡野さんは辻記者と近付けることができた。

「父の転勤で、高校1年生の時に小樽から横浜に引っ越してきたんだけど、肺結核に罹っちゃって、白金の北里病院に2年間入院していたんです。同じフロアに、肺浸潤で辻さんが入院してきたんだ。『ロンドンー東京5万キロ』はもちろん知っていたけれども、同じフロアになったことで辻さんのことが近しく感じられて、“辻さんみたいな旅を、いつか自分でもできたらいいな”と意識し始めたのかな。うん、そうだね」
 岡野さんの祖父が通訳として在日米軍で働いていて、横浜の自宅にアメリカ兵がよく遊びにきていたという環境も外国への心理的なハードルを下げていた。

 また、大学へは通ってはいたものの、キャンパスライフを満喫していたわけでもなかったらしい。
「一番楽しかったのは、小樽の高校時代だったね」

 2年間も入院してしまったので、大学に入学した時には20歳を超えていた。クラスメイトや同学年の自動車部員たちよりも2歳年上だ。その年頃の2歳の違いは大きいから、感覚が合わなかったり、共通する話題が少なかったりして、あまり馴染めなかったとしても不思議はない。
「自動車部も入ってみたものの、すぐに嫌になった。先輩たちから、いつも理不尽に殴られてね。先輩といったって、僕と同じ歳か年下なわけだから、納得できなかった。先輩というだけで暴君のように振る舞っても許されるのは旧日本軍の悪い体質を引き継いでいた」
 モヤモヤした心情を抱えながら学生生活を送っていた時に出会ったのが、日本にやってきたマイケルだった。悶々としていた岡野さんにとって、自由に世界を旅しているマイケルはさぞ輝いて見えたことだろう。一緒に旅立ったら、『ロンドンー東京5万キロ』のような旅ができるかもしれない。岡野さんの気持ちが揺れ動いていったのがよくわかる。

ブラジルではエンジンを載せ換えた

 タイプ2について、著書では次のように記されている。

<私とマイケルを乗せて、積雪の大アンデス、南米のジャングル、アフリカの大草原、サハラ砂漠、さらには厳寒の北極圏と、世界のあらゆる自然の障害を走破した愛車フォルクスワーゲンはきわめて小柄である。ボディサイズは、全長4.52x全幅1.69x全高1.96メートル。空冷水平対向4気筒エンジンの排気量1192cc、最高出力34馬力>

 二人はロスアンゼルスからいったんサンフランシスコに北上してから南東に向かい、テキサス州エルパソからメキシコに入り、その後、アメリカ大陸を南下していく。

<驚いたことに、ここホンジュラスでは私たちのと同じフォルクスワーゲンのマイクロバスが、市内バスとして走り回っているのである>

 コロンビアやエクアドル、ペルー、チリなど太平洋側の国々を巡って南下し、最南端のフエゴ島に船で往復した後は、大西洋側のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイと大西洋側の国々を通り、ブラジルのリオデジャネイロからボイスベン号という船に乗って南アフリカのケープタウンに上陸したのが1963年10月13日だった。

 ブラジルでは、タイプ2は大規模に修理された。

<我らが愛車のフォルクスワーゲン・バスは、ドイツ本国のフォルクスワーゲン社長じきじきの手紙で、サベルナンデカンポ工場で徹底的に修理された。エンジンも新品に載せ換えることになった>

 アフリカ大陸を縦横断し、モロッコのタンジールからスペインに渡り、北極圏のノルウェーのノースケープやソ連のモスクワや共産圏の国々を訪れたり、イギリスに渡ったりもした。

<ユーゴスラビアでは、フォルクスワーゲンのディーラーでコンタクトポイントを交換した>

 西側のヨーロッパ諸国では、フォルクスワーゲンがたくさん走っていた。

<オーストリアの道路は、フォルクスワーゲンだらけである> 

 1965年10月28日にベルギーのブリュッセルに到着。マイケルは世界一周を達成し、ブリュッセルでの日常生活に戻った。

ベルギーから日本へはタイプ1を一人で運転して

 岡野さんはフォルクスワーゲンの販売代理店ディトレン社と交渉し、タイプ1ビートル1200の提供を受けた。2023年の今でも岡野さんの家に残されている、このタイプ1ビートルのフロントボンネット中央部分には、大きく「Second expedition Started D’IETEREN Co,Ltd BELGIUM」とペイントされている。

<心からお礼を言いたいのは、フォルクスワーゲン社に対してである。(旅費を稼ぐためのブリュッセルでの)アルバイトを紹介してもらおうと、代理店のディトレン社にガイゼル取締役を訪ねた。“仕事が欲しいのです。できたらクルマを買って日本へ帰りたいのです”。“えっ”とガイゼル氏。“そりゃいい。クルマはあげますよ。ぼくは君たちの偉業に感謝しているんでね”。ただちにフォルクスワーゲン1200をくれたのには驚いた。さらに幸運。大阪商船三井が、インドのカルカッタ(現コルカタ)港から船に乗せてくれるというのである。食事代だけ自費、運賃無料という条件である。だが、それにしてもインドまでの旅費はどうするか……。アルバイト生活は続く>

 と、書かれている。


2018年にブラジル・サンパウロで開催された「日本人祭」に行った時にフォルクスワーゲン ・ブラジルを訪れたら、彼らのPR誌に取り上げられた。

 そして、1966年8月20日、岡野さんはタイプ1ビートルに乗って、一人で東へ向かった。東欧の旧共産圏諸国を抜け、ギリシャ、トルコを走って、中近東諸国を巡り、インドのカルカッタで「奈良山丸」に乗船し、ラングーン(現ヤンゴン)、シンガポール、香港を経て、横浜に到着したのが1967年1月15日。合計4年6か月で97か国を巡った走行距離35万kmというスーパーグランドツーリングだった。

 タイプ1で中近東とアジアを走って日本に戻る途中でも、岡野さんはフォルクスワーゲンを選んだメリットを享受できていた。

<フォルクスワーゲンの世界的な販売網はじつによく完備されている。(アフガニスタンの)メッシャバ市で自動車部品屋にとびこんだら、即座に8ドルで(ヒビの入った窓ガラスを)とりかえてくれた>

 マイケルが世界一周のためにType2を選んだ理由は確かめようがない。1998年に天に召されたからだ。でも、推測は難しくない。まず、マイケルの住むベルギーではフォルクスワーゲンというクルマが早くからポピュラーな存在であったことが挙げられる。

 1945年にタイプ1がウォルフスブルクで生産開始され、1948年には1050台がベルギーへ輸出されている。同年には、1820台がオランダへ、1380台がスイスへ、75台がルクセンブルクへ、55台がスウェーデン へ、5台がデンマークへ輸出された。

 シンプルな構造の空冷水平対向4気筒エンジンをリアに搭載するという設計の優秀性も広く一般に評価され、その評判をマイケルも聞き及んでいたことは想像できる。

 タイプ2が発表されたのは1950年だ。多くの人間や荷物を搭載するクルマとして生まれ、タイプ1同様に早くから輸出が始められていた。シンプルなメカニズムはタイプ1を踏襲しているから、世界一周向きだ。地の果てでも修理できる。

 1950年以降はブラジルを皮切りに中南米諸国やアフリカなどへも輸出されていく。構造がシンプルで丈夫なこと、好燃費なことなどがフォルクスワーゲンの共通した評価として世界中に伝搬し始めていった。1953年から日本への輸出が始まったことも、そうした流れに沿ったものだったのだろう。

愛好家のタイプ2に横浜港で

 現在84歳の岡野さんは8年前に日本の運転免許証は返納したので、国内でクルマを運転することがない。ぜひ、引き合わせたい人とクルマがあった。タイプ2と、そのオーナーの佐合哲也さんだ。

 佐合さんのタイプ2は1966年型と、岡野さんが旅したマイケルのタイプ2よりも新しいが基本的なメカニズムは共通している。15年前に購入し、キャンプやスキーなどのアウトドアアクティビティに活用している。佐合さんに岡野さんの著書をお送りしたところ、快諾してくれた。

 引き合わせたのは、横浜港シンボルタワー公園。岡野さんが日本から旅立ったのも、日本に帰ってきたのも横浜港だった。

 佐合さんのタイプ2はウエストファリア製の「キャンパー」というモデルで、2列シートにキッチンが造り付けられている。ウエストファリアはキャンピングカーなどで有名なドイツのボディメーカーだ。

「岡野さんが乗られていたタイプ2は、“23windows”と呼ばれているモデルですね」

 窓の数が全部で23あることが外観上の特徴になっている。

 岡野さんも、旅を思い出しながら、懐かしそうに佐合さんのタイプ2を眺めている。

「同じクルマなの? ずいぶん小さく見えるね?」

 年式や仕様こそ異なっているが、同じタイプ2だ。

「どうぞ、運転席に座ってみて下さい」

「ありがとう。前にエンジンがないから、視界が開けていて、運転しやすいんだ。座高が高いのも良かったことを思い出した」

 リアスペースに回る。2列目シートを畳むと、ベッドに換わる。1列目と2列目シートの間にキッチンが設えられていて、シンクの前に立って炊事を行う時に頭上空間を確保するために、天井がその部分だけ上に伸びて拡大されるようになっている。

「この冷蔵庫は、氷を使って食材を冷やすようになっているんです」

「私が乗っていたクルマはガソリンタンクを車内に追加して積んでいたので、車内での火の使用は爆発の大事故に直結しますから、調理は厳禁でしたよ」

 車内の中央と後部に、ひとつずつ合計ふたつの追加タンクを積んでいて、両方を満たすと120リットルのガソリンが入った。積み込んだタンクについては、本にも書かれている。

<つねに車内はガソリン臭かった>

 追加タンクの分も満タンにすると臭いがキツくなるし、クルマが重くなって加速が鈍る。ガス欠の心配は一時的には解消されるけれども、爆発の危険性という別の問題が発生していた。

 なぜ、ガソリンで満たした危険なタンクを車内に積んでいたのかにも、明確な理由があった。

「マイケルが何社もの石油会社に手紙を出しておいたことから、旅先でガソリンの無償提供を受けることができたんです」

 すべての国で、ガソリンの無償提供を受けることはできた。しかし、それはいわゆる“直営店”のような、石油会社が直接に経営している都市部のスタンドに限られていた。本社からの返事の手紙を見せても、スタンドがOKと言わなければ給油した分の代金を支払わなければならないのは当然だ。地方の独立系の小さなスタンドや、手紙を出していない石油会社が経営しているスタンドには通じない。だから、マイケルはもらえるスタンドからは目一杯もらっておこうと、タイプ2本来の燃料タンクだけではなく、いくつもの追加タンクをガソリンで満たしてもらい、それらを車内に積み込んでいたのだ。

「タンクローリーでもらいたかったくらいでしたよ」

 と、岡野さんは当時を思い出しながら笑っている。

「もらうタイミングが連続した時なんか、内緒で地元のタクシーに売っていたくらいでしたから。ハハハハハハッ」

過酷だった雪のアンデス

 佐合さんがキャンプで使っている折り畳み式の椅子に腰掛けて、旅の話を聞いた。

「岡野さん、南米は過酷でしたね? 雪のアンデスで、危うく取り残されそうになっていましたね」

 佐合さんは、本を良く読み込んでいた。

「ええ、あの時は大変だった」

 岡野さんとマイケルは、チリからアルゼンチンへ向かう途中のオソルノ山を越えようとしていた。道には雪が積もっていて、タイヤはサマータイヤ。もう雪道は走らないだろうとスノータイヤはベルギーに送り返してしまったばかりだった。

 サマータイヤでは、いくらリアエンジンでリアタイヤに駆動力が掛かりやすいタイプ2といっても無理がある。二人は、路端の樹木から枝を切り取り、道に敷き詰めてタイヤのグリップを確保しようとした。その作戦はうまくいったが、あまりにも時間が掛かりすぎた。地図で確認すると、峠まであと23kmもある。この調子では何日も掛かってしまうし、さらに降られて積雪したら、上がれなくなる。


佐合さんのタイプ2には前後ふたつのルーフラックが取り付けられている。その間の天井が上に伸ばせる。

<ボタン雪が降り始め、オンボロ靴は雪を溶かして水を吸い、足の指がちぎれそうに痛い>

 枝を少しずつ敷くだけではスピードに乗れないので、今度は20メートルぐらい長く敷き、マイケルがハンドルを握り、岡野さんが押すことにした。

<エンジンの回転がグンとあがり、ついに私の手を離れた。マイケルの乗るクルマは、雪の急坂を走り出す。一生懸命追いかけた。登りだしたら、マイケルが止めるはずはない。しかし、止めなければ私は雪の大アンデスの23キロをオンボロ靴で走破しなければならない。ところが、私よりもクルマのほうが速かった。後部に世界地図を描いたワーゲンバスは、みるみるうちに斜面を駆け登って消えてしまった>

「このクルマは、けっこう雪には強いんですよ。スノータイヤに履き替えて、大雪の時でも走破できました」

 佐合さんは冬になるとスノータイヤを履かせたこのタイプ2でスキーに出掛けている。

 同じ南米では増水した川に流され掛かったこともあるし、峠越えで山賊に襲われ返り討ちにしたこともあった。過酷な旅の様子が、本には活写されている。アフリカも楽だったわけではない。特に、サハラ砂漠を越えることがいかに大変であったかも描かれている。
「フォルクスワーゲンが優秀だったのは、川を何本も越えて、流され掛かったりして水に浸かっても、エンジンが一発で掛かったことですよ。あれには助けられた」

「僕のタイプ2も丈夫ですよ。15年前に購入してから、ほとんど壊れていません。壊れてもパーツはすぐに手に入って直せるところが優れています」


ステアリング、シフトレバー、パーキングブレーキ、3つのペダルなどすべてが剥き出し。

スマートフォンに収められている佐合さんとタイプ2のキャンプの様子。
著書が読者を旅立たせた

 もともと佐合さんはフォルクスワーゲンが好きで、タイプ2を入手する前にはタイプ3ワゴンを手に入れ、2台のフォルクスワーゲンを持っている。オートバイでのツーリングに長年出掛けていたが、4輪で行くようになり、日本車やアメリカ車のステーションワゴンやSUVなどを乗り継いできた。タイプ3ワゴンを入手した半年後に、キャンプに特化したクルマとして、このタイプ2を手に入れた。2週間の旅程で、北海道をキャンプしながら巡ったこともある。

「当時の旅の話が面白いですね。クルマは変わりませんが、時代の移り変わりが旅に表れている。現代のように便利でなかった分、人々は助け合っていたし、人の気持ちの優しさに満ちていたのでしょうね。岡野さんの本やお話から、それが良く伝わってきます」

 岡野さんの自宅に移動し、ブリュッセルから乗ってきたタイプ1のボンネットや写真などを見せてもらった。

 ボンネットは大切に部屋に飾られていた。写真はプリントされ、撮影された場所ごとに丁寧に整理されていた。佐合さんは、岡野さんたちが旅先で報じられた、さまざまな新聞や雑誌の記事が貼り付けられたスクラップブックを興味深そうにページを繰っている。

 良く整理され、保存されているのはスクラップブックだけではない。旅に帯同したスーツケースもあった。「日本=ベルギー共同親善旅行 World Goodwill Tour Automobile Expedition」と大きく描かれている。

 写真やイラストなどを大きく掲載した、岡野さんの自費出版冊子『もっと世界を見たかった! 1962年 ニッポン脱出35万キロ』(2011年発行)もあった。

 岡野さんと他3名の日本人との共著『猛烈な日本人野郎 世界冒険旅行』という本やマイケルの分厚い著作『INCROYABLE ASIE』と『INCROYABLE JAPON』もある。「あしたのジョー」が表紙の『少年マガジン』1968年2月18日号では特集が組まれ、タイプ2の詳細イラストが描かれてあった。コスタリカのリオ・セイボという激流をトラックに牽引されながら渡る様子が見開きでイラスト図解されたり、各地で出会った動物たちが写真とイラストで解説されていたりする。

『地球ドライブ27万キロ』(河出書房新社)という本の表紙には、タイプ2と後ろ姿の男性がひとり。著者の大内三郎氏なのだろう。

「彼は、僕の本を読んで自分も行きたくなり、この家に訪ねてきましたよ」

 岡野さんからマイケルを紹介された大内氏はブリュッセルにマイケルを訪ね、その後に現地で中古のタイプ2デリバリーバンを購入して旅立ち、ひとりで9年間27万kmを走って世界一周し日本に戻ってきた。

 他にも、調べてみると1960年代から70年代に掛けて、タイプ2で世界旅行に出掛けた人々は少なくなかった。特にヨーロッパからはビートニクやヒッピーたちが、“ここではないどこか”を目指して、東に向かってクルマやオートバイ、自転車やヒッチハイクなどで旅立っていた。本や論文がたくさん書かれている。個々の書名は挙げないが、中には大学教授が書いた論文まであるくらいだ。使われているクルマはさまざまだが、タイプ2が使われている例は多い。基本性能に優れていることに加え、荷物がたくさん載せられて、車内で泊まることも可能な多用途性は世界自動車旅行に最適な選択だからだ。

 岡野さんは日本で運転することはなくなったと前述したが、タイプ2との縁は続いている。2018年にブラジルを訪れ、サンパウロで開かれた「日本人祭」を観に行った。その際に55年前にタイプ2の修理のために世話になったフォルクスワーゲン・ブラジルを訪れて、往時の礼を述べた。最終モデルの水冷エンジンのバスと一緒に写真に収まり、PR紙に掲載された。

 佐合さんは、数日前に参加してきた千葉県で行われたフォルクスワーゲンのイベントの盛況ぶりを岡野さんにスマートフォンで見せた。

「行きたかったなぁ。次回は、ぜひ佐合さんと行ってみたい」

 2023年は、フォルクスワーゲン社が日本にクルマを輸出し始めてから70年目に当たる。最初の年である1953年に、108台のタイプ1と3台のタイプ2が輸入され、販売された。

 70年という歴史は、とても長い。その中でも、岡野さんの偉業はこれからも語り継がれていくだろうし、当時のタイプ2は佐合さんのような愛好家によって受け継がれていく。昔のことを思い出すだけでなく、歴史は生きていて、つねに刷新され続けていくものだということが二人を引き合わせてみてとても良くわかった。ID.BUZZというEV版のタイプ2も、やがて日本で販売される。二人を誘って、次はID.BUZZでまた横浜に来てみたい。